わたしははじめからバスの席には座らなかった

わたしははじめからバスの席には座らなかった

初めてバスで席を譲られた。御年60歳。そう言えば家内から少し背中が曲がって来たわよと先日言われた。年寄りに見られるのかなあ、いやいやまだまだ席を譲られるより譲る側の人間だ。そう思った瞬間、あの日の事を思い出した。思い出したくない、40年ほど前の思い出だ。

父が何やら叫びながら帰って来た。宏はいるか!そう叫んでいる。また宏が悪さを働いたか。弟の宏は町内でも有名な悪ガキだった。ケンカに万引き、しょっちゅう警察のお世話になり、まさに親泣かせな子供だった。

「宏ならさっき返って来たよ」と僕。「わかっとる」と父。「また、何かやらかしたの?」「いいや、そうじゃない、とにかく宏はどこだ」。父親の大声で宏がのそりのそりと二階の階段を下りて来る。「別に今日は何もしてないと思うよ」宏はぽつりと父に向ってそう言う。

「いいや、した。したした」。なぜか父は上機嫌だ。「いいや、学校からバスに乗って帰って来ただけ」「だからそれだ」「バスに乗るのが悪いのかよ」宏は少々ふてくされて言う。「そうだ、お前はバスに乗った」「ああ、乗った」「私もそのバスに乗った」と父。「だから?」「そこでお前は何をした」「別にこれと言って......」「お前は本当に札付きの不良だ。しかしだ」父は宏の両肩を掴むと、大きく頷いて言った。「お前は本当は素晴らしくいいやつだ」。

「さっき実はお前と同じバスに乗っていたんだ。声をかけようかなと思ったんだが他にもお前の同級生らしき学生がいたので、躊躇していると」「ああ、同じバスだったの」と宏。「お前はさりげなくお年寄りに席を譲った」「まあね」と宏は少し恥ずかしげに答える。「素晴らしい。お前は本当はとてもいい子なんだなあ」。

この一言で私は弟とは比べものにならない程、もっとひどい不良になった。「いい子だいい子だ」と宏を褒めちぎる父親を産まれて初めて殴った。私は年寄りに席など譲った事がなかった。なぜか?それは、はじめから席に座らなかったからだ。
席を譲ると恩が生れる。私はそんな恩はほしくなかったから、はじめから席に座らなかった。

父にほめられ自分の価値を見出したのか、宏はそれからまっとうな学生になった。
それに反比例して私はどんどんどんどんと不良になって行った。

「おじいさんどうぞ」学生が私を呼んで席を立とうとする。私はいいや結構です。と断る。これからは頻繁にあの時の父の言葉を思い出してしまうのか......。明日からは駅まで歩いて行こう。